はみごのぼやき
真夏の夜の夢

「夏の夜の夢」、原題で言う「夏の夜」とは、夏至の頃を指す単語である。

日本の「夏の夜」と言えば、暑い、寝苦しい、気怠いといったイメージを与えがちだが、夏至の夜となると、前述した印象より、むしろ、一年で最も短い夜であることに意味を持たせようとしたのではないかと思われる。 また、彼の国では、「夏至祭」が行われていたことからも、この「祭り」の中、羽目を外して騒ぐ、一種の狂気じみた一夜を、シェークスピアもまた体験していたのかもしれない。 それ故の原題であり、また、それ自身が、この作品の構想並びに全体像の基盤、あるいは、根底にあるのではないだろうか。

朝になって、昨夜の夢のような出来事を聞いたシーシアスは、『恋するものと狂人は共に頭が煮えたぎり、ありもしない幻を創り出すのだ、そのために冷静な理性では思いも寄らぬ事を考えつく』と述べている。 まさに、一種異様な高揚感の中に彼らがいたということを、シーシアスという「理性」は感じたのだろう。 さらにシーシアスは、『狂人、恋人、それに詩人といった連中は、すべてこれ想像力の塊と言っていい』と述べている。 シーシアスにしてみれば、恋人たちも、狂人も詩人も、「想像力」という、彼にしてみれば不条理な形なき“何か”に取り憑かれた者は、狂気じみていたのだろう。そう、ここでは、シーシアスは「理性」の象徴なのである。 その「理性」の象徴であるシーシアスは、『広い地獄に入りきれないほどの悪魔を見る』のが狂人で、『色黒のジプシー女に絶世の美女ヘレンを見る』のが恋人であると皮肉をも口にしている。 それほどに、『強い想像力はそのような魔術を持って』いて、『ただある喜びを感じたいと思うだけで、たちまちその喜びを仲介するものを思い浮かべる』ことができるのである。 これは、シェークスピア本人の持論だったかもしれない。 そしてこの想像力は『暗い夜、ある恐怖を想像するだけで容易に草むらを熊と思い誤る』ような不条理であったり、滑稽である過ちを生み出しかねない。

一夜の間に起こった絡み合う出来事の中には、まさに日本の夏の夜に感じられるような生温いけだるさもあったに違いない。 同時にその中で、盲目的で、一種狂気じみた恋の模様が浮き彫りになるのだ。 もしかすると結婚もしくは恋愛そのものが、シェークスピアにとっては夏至祭で見られるような狂気じみたものだったのかもしれない。 そしてこの作品自体が、シェークスピア劇の根底にあるものだとさえ思われるのである。 最後を締める口上の中、『拙い芝居でありますが、夢に過ぎないものですが』とあるように、この作品はまさに「夏の夜の夢」なのである。



レポート目次目次へ戻る




©2003,2009.tukuyomi.All Rights Reserved.