はみごのぼやき
ゲド戦記

今回もお決まりの某テレビ局某枠で放映してくださったのを、ありがたく見させて頂きました。

主人公の少年…、いえ、主人公は、ゲドさんなんでしたっけ?
とにかく、メインの少年(名前が思い出せません)が抱えている闇(と言ってもよいと思います)の深さや大きさが、気になった作品でした。

誰しも、何某【なにがし】かの暗い部分は抱えているものかもしれません。
しかし、それを、奥深くにしまいこむことや、少し脇に置いておくことも、また、日々を生きる上で、必要になることもあるでしょう。

彼は、己【おの】が闇に呑まれ、自身の光さえ、置いてきてしまったのでしょうか。
そうだとすれば、彼をそこまでさせた思いとは、一体、どういうものだったのでしょうか。

彼が苦しんでいることが分かっても、何に苦しんでいるのかは、結局分からなかったように思います。

人、生き物の、生き物としての営み。

テルーの言葉を、私は、誰もに聞いてほしいと思います。
きっと、それが、私たちが、生き物として、生を受けた以上、負うことになる、義務や責務なのでしょう。

人には、人それぞれの歩んできた道と、歴がある。
そして、そこから溢れる思いがあり、言葉がある。
私は、そう思います。
だから、彼女の言葉を重く感じるのかもしれないし、それが、自身に突き刺さるように感じるのかもしれません。

クモはまた、人の欲望の象徴的な存在でもあったのでしょうか。

人は、生まれた以上、死なねばなりません。

永遠に憧れますが、その永遠もまた、恐ろしいと感じます。

人は、もしかすると、先人の方々の言うとおり、「死」を意識して初めて、もしくは、最も、「生」を感じるのかもしれません。

それならば、クモは、老いて、己の終焉が近付いていることを知り、いえ、それを意識し、「生」に執着した結果の姿だったのかもしれません。

哀れだ、自業自得だと思う中にも、これが人なのだと、これも、人の一面なのだと、クモを見て、思うのです。

しかし、ゲドも人で、あの女性(名前忘れた)も人で、みんなみんな人なのですね。

国へ帰った少年を待つものは、何なのでしょうか。

彼は、自身の光と、再び、共に歩むことが出来るのでしょうか。

彼の光は、自身を見つけられたのでしょうか。

あの世界は、これからどう進むのでしょうか。

魔法が消えていくその理由は、世界の変化の理由は、答を見つけることは、できるのでしょうか。

印象としては、割と、全体を通して、淡々と進む作品だったと思います。

知って、悟って、投げ出したり、呆れたりするだけでは、きっと、私たちは足りないのでしょう。

知って、悟って、受け入れて、歩き出すことができたら、生き物として、全うすることができたら、きっと、私たちは、何よりも、己【おのれ】を全うできるのではないでしょうか。




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